FC2ブログ

やっと来た。

27日、☁、19℃

嘗て足を運ぼうと企画し道を間違え飛行機に乗り遅れいけなかった沈壽官窯。
十数年ぶりにチャンスが巡ってきた。

沈壽官窯のあゆみには、
慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代 沈 当吉はいた。沈家は、慶尚北道青松に本貫を置き、その一族は李朝四代世宗大王の昭憲王后を始め、領議政(国務総理)九人、左議政、右議政(副総理)、四人等を出した名門である。

薩摩の勇将島津義弘によって連行された朝鮮人技術者達(製陶、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等)は、見知らぬ薩摩(現在の鹿児島)の地で、祖国を偲びながら、その技術を活きる糧として生きていかねばならなかった。 陶工達は、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を造り出したのである。それらの焼物は、薩摩産出の土を用い、薩摩土着の人々の暮らしのために作られた地産地消のものであり、それらを『国焼』(くにやき)と呼ぶ。

江戸時代、薩摩藩主であった島津家は朝鮮人技術者達を手厚くもてなし、士分を与え、門を構え、塀をめぐらす事を許すかわりに、その姓を変えることを禁じ、また言葉や習俗も朝鮮のそれを維持する様に命じる独特の統治システムを創った。
沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人としての家系をたどり三代 陶一は藩主より陶一の名を賜わり、幕末期には天才 十二代 壽官を輩出した。

幕末期の藩営焼物工場の工長であった十二代 壽官は薩摩藩財政改革の中で薩摩焼の振興に多大なる貢献を果たした。更に明治六年(1873年)、日本を代表してオーストリアのウィーン万博に六フィート(約180cm)の大花瓶一対を含む幾多の作品群を発表し、絶賛を浴びた。以来、「サツマ」は日本陶器の代名詞になっていくのである。 十二代 沈 壽官は透し彫り(すかしぼり)、浮き彫り(うきぼり)の技術で明治十八年(1885年)農商務卿 西郷従道より功労賞を受けた。明治二十六年(1893年)には、アメリカ合衆国シカゴ・コロンブス万博において、銅賞を獲得。

明治三十三年(1900年)にはパリ万博にて銅賞。明治三十四年(1901年)には産業発展の功労者として緑綬褒賞を賜った。さらに、明治三十六年(1903年)にはハノイ東洋諸国博覧会において金賞、続く明治三十七年(1904年)セントルイス万博にても銀賞を受賞した。明治三十九年(1906年)七月九日、この世を去る、まさに最後まで、精力的に薩摩陶業に邁進した。

日本陶器の代名詞とまで言われた薩摩焼の総帥でありながら、十二代 沈 壽官は海外の嗜好に決して迎合せず、日本人の美意識を貫き、最後まで自らを『平民』と称し続けた硬骨の人であった。

十二代 沈 壽官の死を受け、長男の正彦は尊敬する父の名を襲名する事とし、明治三十九年(1906年)十三代 沈 壽官を名乗る。しかし明治四十三年(1910年)に韓国併合が行われる。朝鮮人陶工を始祖にもつ苗代川陶工達にとって厳しい時代背景の中、偏見と差別の中で誇り高く、そして誠実に父祖の業と伝来の作品群を守り抜いた。

大正十一年(1922年)より昭和三十七年(1962年)まで四十年間に渡り、苗代川陶器組合長として薩摩陶業の発展に尽くした。その孤高の生き様は、現在の沈壽官工房の礎となっている。

昭和三十八年(1963年)に産業発展の功により県民表彰を受賞。翌昭和三十九年(1964年)没。

十三代 沈 壽官の長男 恵吉も昭和三十九年『壽官』を襲名。十四代 沈 壽官を名乗る。

昭和四十三年(1968年)十月 作家 司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』の主人公としても登場。

昭和四十五年(1970年)大阪で開かれた万国博覧会に白薩摩浮彫大花瓶を出品し、好評を博す。

平成元年(1989年)には明仁天皇陛下より、日本人初の大韓民国名誉総領事就任を承認された。また、平成十年(1998年)に行われた国際的イベント『薩摩焼400年祭』の成功により、金大中大韓民国大統領閣下より民間人としては最高位にあたる大韓民国銀冠文化勲章を受章した。

薩摩焼の名を再び全国へ認知させた功績は実に多大なものがある。

平成十一年(1999年)一月十五日、十四代 沈 壽官存命中のまま、長男 一輝が十五代を襲名し、『壽官』を名乗る。

十五代 沈 壽官は昭和五十八年(1983年)早稲田大学を卒業、昭和六十三年(1988年)イタリア国立美術陶芸学校を修了。平成二年(1990年)大韓民国京畿道 金 一萬土器工場(現五父子雍器)にてキムチ雍製作修業。

平成十一年(1999年)三笠宮寛仁親王妃 信子様、平成十六年(2004年)十月、明仁天皇陛下御実姉 伊勢神宮御祭主 池田厚子様、同年十二月 大韓民国大統領盧 武鉉閣下ご夫妻の御来窯の名誉に浴した。とある。
 また、当15代は、「直心直伝」の中で まだ、私の夢には出て来てはくれない。
 しかし、父が旅立った事で私にも新しい意欲が湧いてきた。
今年は窯元に「絵付けの体験場」と「小さなカフェ」を作る予定だ。

 父が以前言っていた言葉の中に、「この村にくる人々は、何か近くに大きな滝があったり、古い名刹があるからではない。この沈壽官の窯を見るために遥々来て頂いているのだ。出来上がった焼き物を並べて販売するだけでは不十分である。」
そう言って、工房見学や収蔵庫を建設した。お茶室も然りだろう。
 そこに絵付け体験とカフェが加わることにより、「工房の窓から焼き物作りを見る」「収蔵庫で焼き物を学ぶ」「絵付け体験で焼き物を作る」「カフェで焼き物を使う」そして最後に「焼き物を買う」(ここが、一番自信がないが・・・。)
 この5つのメニューで、お客様をお迎えしたいと考えている。

 世の中はコロナ肺炎で漠然とした不安に覆われておる。こんな時に始めるのか?よく考えろ。とも言われる。

 しかし、この社会が凍りついている時にこそ、作り上げたいと考えている。
 遠路遥々、この地においで頂いたお客様に、旅の思い出を贈りたい。
 今年の10月にはオープンの予定です。
と書いている。
作品と一緒にこの思いを買いたい。
秋雨の中、鹿児島空港からレンタカーで直行。
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

ご来賓

プロフィール

清己

Author:清己
静岡の山奥で
  茶を栽培する
小さな小さな
  ひやくしよう!

カテゴリ
カレンダー
09 | 2020/10 | 11
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR